釈迦の時代から現代まで、仏教の歴史をを駆け足で解説 |
Home |
|
◇ 仏教の歴史
■ 釈迦の時代
仏教の始まりであるお釈迦さまが誕生したのは今から約2500年前。
場所は、インドとネパールの国境付近で、名前を「ゴータマ・シッタルダ」といいます。
生まれてすぐ7歩あゆんで「天上天下唯我独尊」と唱えたという有名な伝説があります。
釈迦と呼ばれるのは、シャカ族の治めるシャカという小国の王子であったからです。
文武に優れ、しかも感受性の強い少年であったと伝えられています。
17才で結婚、男の子をもうけますが、29才のとき約束されている将来の国王の地位を捨て、妻子を残し出家しました。
その頃のインドはバラモン教が優勢な時代。当時の出家者がそうであったように、お釈迦さまもまた荒行の日々を過ごします。
お釈迦さまの荒行は、私たちには想像の域を超えたすさまじさだったようです。
が、35才まで6年間を費やしてもなお「悟り」に至りませんでした。
身も心もボロボロになったお釈迦さまは荒行を捨て、体をいたわりつつブッダガヤの地で座禅と瞑想に没頭しました。
そしてついに「人間の真理」を悟られたのでした。
それが、アシュバッタ(菩提樹)の木の下だったわけです。
やがてお釈迦さまは、自分が悟った最高の真実を人々に説き示すようになりました。
仏教の始まりです。
お釈迦さまを慕ってたくさんの人が集まりました。
クシナガルの地で80才で亡くなるまで45年に渡り各地を行脚しながら人々に説いてまわりました。
■ 経典の誕生
お釈迦さまの説法は、ひたすら話し聞かせるという形でした。
お釈迦さまの直弟子達も同様に各地で説法を展開しました。
いわば伝言ゲームのような形で釈迦の教えが民衆の間に広がっていったのです。
やがて時がたつにつれ「私はこう聞いている」「いや、私の場合はこうだった」とお釈迦さまの教えに食い違いが見られるようになってきました。
それを防ぐため有志により文書化されたのがこんにち経典と呼ばれるものであり、その数3000以上とも言われています。
経文が「如是我聞(私はこのように聞いた)」で始まるのはこのためです。
■ 仏教の伝播
お釈迦さまが没して400年、解釈の違いから仏教に2つの大きな流れが生まれました。
南伝仏教、北伝仏教と呼ばれる流れです。
南伝仏教では、悟りに至るには出家して自ら修業しなければならないという個人救済の立場をとります。
一方、北伝仏教は、「限られた出家者のみが救われるのでなく、大衆の迷いや苦悩をも救われなければならない」と万人救済を説きます。
さらに、北伝仏教は顕教、密教という二つに分化していきます。
分化しつつも勢力を拡大していった仏教は、やがて東南アジアやヒマラヤを越え中国にも広まっていきました。
中国に仏教が入ったのは、1世紀ごろと言われています。
南伝仏教とは東南アジア方面に広がったことから、北伝仏教はヒマラヤを越え中国方面に広がったことからこのように呼ばれています。
経典を求めて中国からインドに向かう僧もいました。
今なら簡単に移動できますが、当時は命がけの苦難に満ちた旅でした。
有名な西遊記は、29才で故郷をたち45才で帰ってきた三蔵法師(玄奘)のエピソードですね。
玄奘は、膨大な量の経典を書写して帰っただけでなく、漢訳という大作業も成し遂げました。
一方で、膨大な量の経典は当時の中国の仏教徒の混乱を招きました。
お釈迦さまの本意がよく反映されているのは、法華経なのか浄土経なのか華厳経なのか・・・。
どの経典に重きを置くかで認識の違いが明らかになってきました。
これが宗派の始まりで、日本の仏教もこの延長線上にあります。
日本に仏教が伝わってきたのは538年(552年説も)とされています。
日本書紀に百済から仏像と経典が送られたと記されているからです。
蘇我氏物部氏が拮抗していた時代で、仏教受け入れ派の蘇我氏が拒否派の物部氏に勝利したことで仏教が容認されることとなりました。
ほどなく聖徳太子(574〜622年)の時代を迎えます。
摂政となった太子は大陸の文化や政治体制を意欲的に取り入れました。
仏教とて例外でありません。
僧を隋に派遣したり、寺院建立や仏像の造立を奨励したのです。
太子の施策により仏教が日本に定着する基礎ができあがったと言えます。
仏教を後押しした蘇我氏も大化の改新(645年)で滅び、律令国家の時代に向かいます。
国費で寺院が建立されるなど、朝廷より手厚く保護された仏教は、隆盛の一途をたどりました。
といっても、民衆の信仰とは無縁の話で、護国隆盛を祈願する国の祈祷施設として機能していました。
あの「奈良の大仏」もこのような経緯で造仏されています。
一方で、仏教を研究するための学問所も開設されました。
それが、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗の南都六宗で、いわゆる奈良仏教です。
寺院や僧が増えたことが、やがて国の財政を圧迫するようになります。
政治にも影響力を持つようになり、道鏡という僧は天皇の地位をさえ画策しました。
桓武天皇の時代になって、都を京都に移すと共に仏教保護政策の見直しが進められます。
■ 日本の仏教
このような時代に登場したのが最澄(767〜822年)と空海(774〜835年)です。
2人は奇しくも同じ時期に遣唐使の一団に混じって唐に渡りました。
帰国後、これまた前後して比叡山に天台宗、高野山に真言宗をそれぞれ開きます。
国のバックアップを受けたことは奈良仏教と同じですが、政治に関わることなく山中の修業道場として機能しました。
仏教の研究集団としての色合いが強かった奈良仏教と違い、二人の実践的な教えは人々の支持を、とりわけ藤原氏をはじめ貴族階級から絶大な支持を得ました。
平安時代中期より豪族や源平の武士勢力が台頭してきます。
律令体制の崩壊と共に治安が乱れ、また天災や飢饉、疫病で社会不安が高まりました。
さらに末法思想の蔓延が人々を怯えさせました。
末法思想とは、1052年より仏法が無力になり社会が混乱するという思想です。
このような時代背景から、来世での極楽往生を願う浄土教の教えが広がってきました。
ひたすら念仏を唱えることで救われると法然(1133〜1212年)が浄土宗を開き、また、法然の弟子であった親鸞(1173〜1262年)が、さらに踏み込んだ絶対他力を唱えました(後の浄土真宗)。
一方でまた、栄西(1141〜1215年)が臨済宗を、その弟子である道元(1200〜1253年)が曹洞宗を開きました。
自己を厳しく律する栄西の臨済宗は武士社会の規範に合致したため武士の間で広がっていきました。
道元は、権力には近づかず座禅に励み弟子の育成につとめました。
1549年、キリスト教布教のためフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しました。
世はまさに戦国時代、戦乱で疲れた人々の間に急速に浸透していきますが、1612年、幕府はキリシタンを禁止し寺請け制度がスタートします。
全ての家庭がお寺と檀家関係を結び、宗門人別改帳という今でいう戸籍簿のようなものが作成されました。
これが今日の檀家制度の始まりです。
またこの頃より、旦那寺が葬祭に関わるようになり仏教による葬儀が一般化していきました。
鎌倉仏教誕生から約800年、権力の弾圧や内紛、分派、衰退、再興と時代の波にもまれながら、今日まで連綿とその法灯を伝えているのです。
|